忘れられないコート

フランス、ノルマンディーの片田舎にある農場で少し手伝いをしていた時のこと。そこでは昔ながらのパン作りをしていて、古城跡の朝市で石畳の上に机を並べて売っていた。小麦を育てて石臼で挽き、薪を使って石釜で焼く。池の畔にある小屋の煙突から薄い煙が立ち昇るとき、辺りはなんとも言えない幸せな香りに包まれた。

自分のことをパン屋ではなく、あくまでも農家だと言う彼。糸がほつれ色が褪せた古いコートを羽織って日々の作業を、黙々とこなしてゆく粉まみれの背中が眩しかった。

仕事を終え、暗い部屋に掛けられたそのコート。ひとりの人間の人生が刻まれた布の姿に心震えた。
自分にとってはどんな服よりも美しく生涯忘れえぬコートとなった。

未 草 小林 寛樹

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